分からないが愛おしくて
(2023.04.20推敲)
記事が長くなりがちで反省しております。
聞いてください。私が人生でいちばん長くかけて応援してきた人がついにパパになりました。
拝啓、父上様です。
不思議な感覚です。学生時代だったら、おそらく泣いて寝込んだだろうと思うのですが。
20代も後半にさしかかった自分はこの知らせを聞いて、静かに「硫黄島からの手紙」を観始めていました。
「硫黄島からの手紙」は、「二宮和也を好きな人間ほど、引き込まれた途端に追い出される作品」だと私は思っています。
ただ、この「追い出される」と言う感覚は単なる疎外感とはちょっと違っていて。
もう少し正確に言うと、西郷を二宮和也としてではなく、作品の中に生きる1人の初対面の男として見ることができる、という感覚に近いかもしれません。
ちょうど自分がリアルな風景を偶然目にしたときと同じように、いい意味で彼からピントを外して常に作品の全景を見ることができる。
これって当たり前のようで、意外とできない気がするんです。
好きな人が出ている作品だと、どうしてもその人を目で追ってしまいがちじゃないですか。
やっぱり一挙手一投足、目に焼き付けたくなる。実際にはなかなかできませんが。
そして私のような怪文書を書くことが好きな人間は特に、好きな人のことを知りかじっていればいるほど、そのなけなしの知識握りしめて人とは一味違う感想を持ってやろうとか謎の意気込みを持ったりするんですよ。
でもこの映画ではまず無理です。
どれだけ私が、当時の二宮和也がキャプテンからもらった餞別の5000円を握りしめてハリウッドに向かったエピソードを知っていようとも、スクリーンには毎日パンを焼いて、妻とお腹にいる娘とつましく暮らしていたところ、赤紙一枚で突然あの島に連れて行かれた青年しかいません。
二宮和也の芝居において一番私が慕っているのは、この「彼を知っていることが何のアドバンテージにもならない」ということです。
毎回、新鮮な驚きがあるんですよね。
こんな表情するのかとか、そのトーンでその言葉が出るのかとか。
おそらく彼単体ではなく、作品の風景の中に溶け込む人物として彼を見させてくれるからこそ、なせる技なんだろうと思っています。
ものすごく大きくくくると、一種の「ギャップ萌え」なのかもしれません。だいぶ強引ですが。
ベルリン映画祭の記者会見で自分は俳優ではない、日本では歌って踊っていて、5人のグループで活動していると語っていた同氏。
いつもコンサートでは、こちらに向かってい〜らっしゃいませ!と両手を広げてくれる氏。
そんな二宮和也さんが、気付けばご結婚され、お父さんになり。
また私の知らない彼のチャンネルがひとつ増えました。
好きな人に知らないところがあることが、面白いことなのだと気付かせたくれた、ユーモラスでチャーミングなアイドル。
おめでとうございます。ご家族ともに、どうか幸せで。
そして欲を言えば、いつかまた、私の知らない世界を教えてください。
これから先、このチャンネルあといくつ増えるかな。リモコン一本で足りますかね。楽しみです。